日本のテレビドラマ史上、最古の台北ロケ?
泣いてたまるか 先生台北へ飛ぶ
いやー、ビックリした。BSトウェルビってチャンネルで楽しみにみてる、『泣いてたまるか』。渥美清主演で1966年スタートの古いドラマです。毎回、渥美清主演という軸は同じでも、ストーリー設定や役どころが変わる一話完結ドラマ。第51回エピソードが台北ロケされてます。きっと、なんちゃって台北でスタジオでセット撮影?とたかをくくって見始めたところ、ほんとに台北でロケしてるようでぶったまげました。これより古いドラマで台湾にロケに行ったものってあるんでしょうか?映画ならともかく、テレビドラマでですよ!昭和後期のOL3人ミステリーだかサスペンスの2時間ドラマなら台湾ロケの見たことあるけど1960年代で!
ロケ地情報、どっかにないかとググッたら、とある台湾マニアさんのブログを見つけておお助かりです。(ありがとうございます!)
到着する空港は、、、たぶん当時なら松山機場でしょう。日系エアラインじゃないくてタイ航空が協賛してます。JALもANAも就航してなかったんでしょうか?
泊まるホテルは中華趣味の装飾が派手なリッパなホテル。中泰賓館というホテルで今はもう閉館しているそう。その当時、圓山ホテルは蒋介石が実際使っていた時期でしょうか?
平屋だらけで整然とした街路樹の綺麗な市街が映ります。人力カーだ、、。見覚えのある門が登場、これは景福門。登場する女優さんはスラリとしてて綺麗なチャイナ風ワンピースで。先生役の渥美清が父兄に頼まれて引率する生徒はお金持ちのお嬢さんという設定で、黒いワンピースが綺麗。いや、黒じゃないかも、、白黒で色は分からない。とにかくかなり濃い色なのです。伝統的な傘帽子をもらって被る姿も素敵です。お嬢さんは祖母の反対を押し切って、台北へ再婚して住んでる母親に会いにいく話。
空港でお母さんに会えず、二人はタクシーでホテルへ。そして散策をしに行く場所が今の二二八和平公園みたい。
蓮がぎっしり埋まった池が出てきます。こんな池あったっけ?中国古典式亭閣に涼亭かな?、、、去年旅行で行ったときの記憶が蘇るような箇所がチラホラ。中正祈念堂は1976年工事スタート。この当時には存在してないんでした。
先生に付き添われて、お嬢さんはホテルで小さい頃別れたきりのお母さんと再会します。初めて紹介される再婚相手の台湾人夫に連れ子含めた子供たち5人。お嬢さんはいきなり姉と兄、妹と弟に囲まれ、びっくりする間もなく台北を案内されます。先生も動揺しつつも引率でくっついていく。
まずは夜市へ。いままでガイドブックでも見たことない丸い円形状の市場が登場。こ、これ、どこですかー?円広場と紹介されてましたが聞き違いみたい。まるで香港のどこかみたいな、、、。
*写真で検索したら圓環という市場だそう。度重なる火災で取り壊しとなり、圓環で営業していた屋台が移動して今の寧夏夜市になったそう。今もそのロータリーにはモダンな円形ビルが建てられたものの、寧夏夜市に移った屋台主は戻ることなく、昔の賑わいは中山のほうに移ってしまってます。(参考サイト:你知道圓環嗎?)
お母さん一家と先生、お嬢さん、揃って市場へ。その丸い市場の中はムンムンとした食べ物屋台がずらり。いやぁ、ワイルド。今の夜市と違って豚の足に腸に脳髄、カエルの断面、鶏の頭に足、、、動物の原型の残る素朴な料理がズラリ。お嬢さんどころか先生も手が付けられなくて苦笑い。
打ち解けられないまま、翌日は一家でバス借り切って台北観光。どこかの学校の中庭の庭園からはじまり、
総督府に孔子廟。
そして淡水へ
。
淡水の廟に参拝、英国大使館になってるオランダ風建物へ。翌日は「野柳岬の奇観も出てきます。台湾のきょうだいたちは、お嬢さんを大歓迎。小さい妹や弟の屈託ない笑顔にお嬢さんもだんだん緊張がとれていく反面、母親とふたりきりになる時間がなくて淋しい様子。お母さんもなんとなく遠慮がち。
その後はダムへ。どこのダムだろう?有名な八木博士の設計したダムのあるという嘉義までご一行は行ったのだろうか?、、いくらドラマといえどそんな無茶はなく、桃園の石門水庫というダムだそうです。ここで一行は遊覧船に乗ります。
その後で高砂族の村みたいなところで民族舞踊を見ます。
このあたりで母娘の距離は氷解し始め、母が何通も娘に書いた手紙は祖母によって捨てられていたことが分かる。
このドラマそのまんま、台湾観光案内状態。その当時の台湾は蒋介石の国民党の独裁政権なはず。国民の生活は自由を奪われた暗黒のイメージでは?と勝手に持ってただけに、ほのぼのした庶民の物語の展開に気持ちよく見られました。ところが、後半のクライマックスでちょいとゲンナリ。
やっとお嬢さん、お母さんが母娘ふたりきりになったときのセリフ。お母さんは、戦争中の娘時代に日本で今の台湾人の夫と知り合ったと。お互い好きだったけど終戦後に台湾へ帰国でお別れ。おかあさんは結婚した夫とは死別後、彼が日本に会いに来てくれた。彼も奥さんを亡くして子供を抱えていると知る。
ここまではいい。娘時代の恋心の思い出に火がついて台湾について行ったわけなら。
しかし、このドラマはそういう流れの味付けじゃなかった。
お母さん、「彼が台湾人だったから決めた。日本は台湾や中国に酷いことをした。彼が日本で差別や意地悪されるのを見てきたけど彼は親切だった。私は彼についていって恩返しをしたかった。台湾に罪滅ぼしをしたかった。私は微力だけど、彼のいい奥さんになれ、子供の母親にはなれたわ。」
(なんだ?それ???)お嬢さん、そりゃ怒ります。
「私は1人で淋しかった。なぜ私のことを捨てたの?一緒に連れて行かなかったの?」と。(私でもそう言う。)
「彼は連れて来るように言ってくれたけど、あなた(お嬢さん)にはお金持ちのお婆さんがいたから大丈夫だった。」
いやいや、参りました。娘ひとり残して台湾で再婚して子供3人産んで大家族を持ち、(罪滅ぼしで)学校で恵まれない子供に教える教師の仕事をしている?たしかにお母さん役の女優さんの演技、娘の感動の再会の場面もシレッとしたそっけなさで見ててガックリしたんでした。母の娘に対する罪悪感と断絶感を演出したのでしょうけど。
お嬢さんのショックに同情しつつも先生も助勢に入り、「お母さんがお金持ちの家の未亡人として悠々とくらす女性であるのと、台湾で立派に生きているのとどっちが幸せだ?お母さんも女なんだよ!わかってあげよう、、、」
最後は先生とお嬢さんが帰国するところ。母親の覚悟を理解したお嬢さん、気持ちに整理がついたようで、「幸せに。さようなら。」と、苦い大団円でお終い。
うむ、、、あまりに上から目線すぎやしませんか?日本に酷い仕打ちをされた可哀想な台湾に申し訳ない、というのが理解不能です。台湾の悲劇は日本のせいなんですか?中国からきた国民党の統治はどうなの?
たぶん、当時1960年代は社会党あたりに投票していたような世代は中国や朝鮮に多大な贖罪感を背負っていたのでしょうかね。一体誰が脚本書いたんだ?って調べたら橋田壽賀子。大正生まれで朝鮮育ちだそう。このひと、二二八事件や戒厳令のこと知らないの?
100歩譲って、ざっくりオンナの性、本音をお茶の間に向かって描ける時代じゃなかったのかもしれません。裕福でも姑と娘と過ごす未亡人という人生より、オンナとして初恋の男性と人生やり直したかった、という話はテレビドラマではタブーだったとか、、。
興ざめの幕引きながらもいいドラマではありました。お母さん役の女優さんが演技上手いんだと思う。、母として娘に対する愛情を内に秘めつつ、自分の選択を正しいと信じて迷いの残してない毅然とした姿を見事に演じきってたからか、あんな左翼な駄セリフに真実味を与えててそんなに嫌味な感じは残らなかった。
そういえば、今どきの茶館でみかけるような台湾茶を飲むシーンとかなかった。台湾ガイドブックで、今の台湾の茶館でのお茶を飲むお作法は1980年台から出てきた、と読んだのをおもいだしました。だけど、お寺や廟で真摯に拝む姿はこのドラマの頃も現代の台湾でも変わらずです。